無意識の美
─二〇世紀美術
「カラッシュ族の女性は日常に黒いドレス、貝殻の帽子、幾重ものビーズの首飾りを身につけて畑仕事をする。秘境チトラルの『無意識』の美」。
山中杏子
 二〇〇一年九月一一日に始まる一連の出来事はイマヌエル・カントが『判断力批判』で提起した美と崇高に関する議論を想起させる。一七世紀から一八世紀にかけて、崇高は自然の広大さや混沌の感情を起こさせるあらゆる現象と関連づけて論じられているが、カントはそれを総括している。崇高の経験は主観に基づき、構想力によって生み出される。構想力の中で感覚刺激が増えると、理解力の働きを妨げる。それには経験の三つの要素、すなわち対象・無限・自由の圧倒的な大きさ、または力がきっかけになる。崇高さは「数学的崇高さ」と「力学的崇高さ」に分類できる。「数学的崇高さ」は、ピラミッドの近くに立ったときに感じられるような広大無辺な圧倒的な感覚である。包括的な理解が完全に行われないため、「驚愕や当惑の感情」を沸き起こす。次に、「力学的崇高さ」は、大地震に直面したときのように、力強さとしての自然との相互作用の中で感じられる。荒れ狂う自然現象は恐怖と自分自身の卑小さを感じさせる。けれども、脅威から逃れられる判断ができるならば、それに抵抗し得る。「おそらくユダヤの律法の中で最も崇高な章句は十戒であろう。『汝、己のためにいかなる形造をも造るなかれ。天にあるもの、地上にあるもの、また地下にあるもののいかなる似姿をも造ることなかれ』。(略)このように道徳性に関して純粋で、気高く、たんに消極的なだけの禁止には、熱狂の危険はまったくない。熱狂とは、感性の一切の限界を超えた彼方に、何かあるものを見ようとする妄想の如くである」(カント『判断力批判』)。
確かに、世界貿易センターとアフガニスタン、さらにイラクを通じて、「数学的崇高さ」や「力学的崇高さ」を経験するが、それは、九月一一日以降、破壊によって鼻持ちならない嫌味さとして感じられている。
If blood will flow when flesh
and steel are one
Drying in the color of the
evening sun
Tomorrow's rain will wash the
stains away
But something in our minds will
always stay
Perhaps this final act was
meant
To clinch a lifetime's argument
That nothing comes from
violence
And nothing ever could
For all those born beneath an
angry star
Lest we forget how fragile we
are
On and on the rain will fall
Like tears from a star like
tears from a star
On and on the rain will say
How fragile we are
How fragile we are
On and on the rain will fall
Like tears from a star
Like tears from a star
On and on the rain will say
How fragile we are 
How fragile we are
(Sting “Fragile”)
九月一一日のテロは、同時多発であることにより、そのテレビ依存性を強調している。マーシャル・マクルーハンは、『メディアはマッサージである(The Medium is the Massage)』において、テレビ画面の映像を二次元的なモザイクに喩えている。多種多様な色のガラスや小石、陶方といった小片を組合せて構成される「モザイク(Mosaic)」は、後に言及するフラクタル幾何学が先取りされ、均一的、連続的、反復的な特徴を持っていないので、その視覚的構造は直線的なブレーク・スルーを目に許さない。テレビの「同時多発性(All-at-Onceness)」、すなわちイメージや情報をさまざまな場所・時間から送信する能力によって、世界の「地球村」への収縮が促進される。テロ・グループはそれをアイロニカルに実現している。
M. C. : This, Mr. Vallee, is
the television scanning equipment.
Rudy Vallee : You know, that’s
a marvelous thing. I have bee broadcasting for a long time, but this will be
the first time the radio audience will be able to both see and hear me
broadcasting at the same time.
And another wonderful thing,
they won’t be able to throw grapefruit at me with this machine, will they?
M. C. : No, they certainly
won(t.
Now we’re going to televise a picture
of yourself. We’ll take you to the other room and let you see this picture as
it’s being transmitted over the air.
しかも、「高層建築(High-Rise)」はマクルーハンの『メディアの法則(Laws of Media)』における重要なメタファーである。マクルーハンはメディアには「拡張(Extension)」・「衰退(Obsolescence)」・「回復(Retrieval)」・「反転(Reversal)」という四つの法則があると主張する。高層建築は「孤独や混雑」を拡張すると同時に、「コミュニティ」を衰退させ、「カタコンペ(地下埋葬所)」を回復し、「スラム」に反転する。テロリストは高層建築を破壊することによって、この四つの法則を顕在化させている。
このように、九月一一日のニューヨークの映像は、メディア論的には、極めて効果的であるが、それは意識以上に無意識に訴えているからである。当時、かなり荒っぽい発言を繰り返すジョージ・W・ブッシュ大統領に対して驚異的な高支持率が示されている通り、(ヒロシマ=ナガサキの原爆被害の写真展を拒否しているにもかかわらず、アメリカ人が呼ぶ)「グラウンド・ゼロ」の記憶は痛ましかったのは確かであるとしても、アフガン空爆とイラク侵攻といったその後の展開にはいささか疑問を抱かずにはいられない。一連の出来事が想起させる美や崇高は意識と言うよりも、むしろ、無意識に訴えるのであり、無意識の美を考える必要がある。
ニューヨークは、二〇世紀芸術においても、中心の地位を占めている。一九三〇年代、ヨーロッパで、全体主義が台頭すると、多くの芸術家がアメリカに拠点を移す。一九〇〇年、国際モダン・アート展、通称「アーモリー・ショー」がアメリカの美術界に衝撃を与えて以来、一九二〇年代も、確かに、ニューヨークで芸術活動も活発だったが、モダン・アートは立ち遅れている。フランシス・ピカビアやマルセル・デュシャンのようなニューヨークのヨーロッパ人は、アルフレッド・スティーグリッツが主催する『391』誌を代表にした寛容なサークルを通じて、アメリカの芸術を変えただけではない。ニューヨークは、ピカビアのイコノグラスムのようなヨーロッパの歴史に反逆する芸術的過激派の巣窟と化す。この国外追放の状態は、ジョルジョ・デ・キリコやアンリ・ルソーがその先駆者であり、シュルレアリズムが重視した芸術の「デペイズメン」を試みさせる。「ミシンと雨傘が解剖台の上で遭遇したように美しい」(ロートレアモン)。
また、二〇世紀の美術は都市の文化である。それも、「ローリング・トゥエンティーズ」と呼ばれる一九二〇年代に入ってから本格化する。近代的に発展してゆく都市は賞賛されると同時に、批判される。世界恐慌の一九三〇年代になると、芸術は現実の都市から離れて抽象化に題材を求めるようになる。都市に関しても、時代によって、認識に変化が見られるふぁ、二〇世紀における都市のイメージはフリッツ・ラング監督による映画『メトロポリス』(一九二六)ですでに完成している。未来派が賛美した明るく、メカニカルでありながら、ノイエ・ザハリヒカイトが非難した暗く醜悪という二面性として都市が描かれている。高層建築は、上からの視点や下からの視点などさまざまな視点を可能にし、映画のカメラのみならず、どこでも持ち運べる小型化したカメラが多種多様なアングルで都市の側面を写真として切り取る。
モダニズムにとって、都市は、ブラジリアのように、はるか上空から神の視点から把握されるものでなければならない。モダニズムには強烈な因習打破の動機があるため、ブラジリアは砂漠の中に建設されている。そういった自閉性はモダニズムの特徴である。バウハウス流の建築物が、インターナショナルな基準として、世界中の都市を覆う。建築家の視点がそこでは絶対視されているのだ。
二〇世紀における都市の発見は市街戦を顕在化させる。市街戦は、スターリングラードのようなおよそ考えられる限り、最悪の戦場である。兵士は市街戦に備えた特殊な訓練、すなわちいかなる状況にも対応できるように用意をする必要がある。芸樹家も同様である。芸術家は前衛ではなく、都市ゲリラでなければならない。
住民の側から捉えた都市の美術、生活者からの都市への視点というモダニズムに対する異論が数多く提出された後、ポストモダニズムは、モダニズムとは正反対に、都市の多元性・交流性を重視する。各都市の個性や歴史が見直され、古いものと新しいものや東洋のものと西洋のものが見出される。そういった都市には住民だけでなく、観光客も押し寄せてくる。観光は新しさを見るだけではなく、歴史も重要なセールス・ポイントとなる。
二〇世紀、美術は美術館からそんな都市の街頭に出て行く。パフォーマンスはその典型である。ナショナリズムの権威と帝国主義の戦利品の展示場でしかなかった美術館もその存在意義の再考を促され、アーツ・マネージメントが発達する。そもそもモダン・アートは運動としてあるため、パフォーマンス性を内包している。イザドラ・ダンカンが体現していたように、モダン・アートの一つのピークである一九二〇年代は演劇とダンスの時代であったが、一九三〇年代に入ると、シュルレアリズムや文化人類学的研究により、無意識ならびに呪術が発見され──シュルレアリズムに先立つチューリヒのダダが偶然と無意識を積極的に介入させた反対のための芸術、「反芸術」の姿勢が最初の兆候である──、パフォーマンスはそういったものの体験となる。特に、ヨーロッパ的な演劇の伝統から離れた合衆国で、モダン・アートのパフォーマンスは著しい発展を遂げる。抽象表現主義はその萌芽を秘めている。ハプニングやイベントは、本質的には、偶然と必然の二項対立における偶然性の優位を主張しているにすぎず、多くの場合、瞬間芸の面白さはあり、スキャンダラスであったとしても、退屈である。一九六〇年代、アメリカのパフォーマンスはカウンター・カルチャーやロック・ミュージックの中で、育っていく。ミニマル・アートやコンセプチュアル・アートはエスタブリッシュメントになることを拒否するあまり、先鋭化=孤立化し、逆に、アングラ演劇同様、一部の熱狂者だけに訴える教団の芸術になってしまう。モダン・アートのパフォーマンスは過去からの決別と他のジャンルからの自立を目指し純粋化させたため、モダニズムの陥る結末、すなわち自閉してしまったのである。一九七〇年代、ピンク・フロイドなどを代表に、ロック・コンサートが巨大なスピーカーやハイテクの照明装置により幻覚的空間の場と化し、デヴィッド・ボウイを筆頭に、演劇やオペラの要素をコンサートに持ち込んでいる。それを極限まで推し進めたのがローリー・アンダーソンである。ポストモダンが花を開く一九八〇年代、ローリー・アンダーソンはファッションになる。
This Is The Picture
excellent birds
flying birds
excellent birds
watch them fly, there they go
falling snow
excellent snow
here it comes. watch it fall
long words
excellent words
I can hear them now
this is the picture, this is
the picture
this is the picture, this is
the picture
I'm sitting by the window
watching the snow fall
I'm looking out
and I'm moving, turning in time
catching up. moving in
jump up! I can land on my feet.
look out!
this is the picture, this is
the picture
this is the picture, this is
the picture
looking out. watching out
when I see the future I close
my eyes
I can see it now
I see pictures of people,
rising up
pictures of people, falling
down
I see pictures of people
they're standing on their
heads, they're ready
they're looking out, look out!
they're watching out, watch
out!
they're looking out, look out!
they're watching out, watch
out!
I see pictures of people
I see pictures of people
(Peter Gabriel & Laurie Anderson “This Is The Picture”)
モダン・アートは、アポロ的な表現主義とディオニュソス的なキュビズムといったように、大きく二つの流れが対抗したり、融合したりして、形成されている。両者の決定不能性が二〇世紀芸術の現象だとも言える。抽象表現主義はこの両者が統一されていた例であるけれども、結局、抽象と表現に分裂する。ヘーゲル的な大きな弁証法と言うよりも、小さな弁証法によってモダン・アートはその歴史をつくっている。
モダン・アートの起源をめぐる議論は多くの意見にわかれている。それは「モダン」という概念をどう把握するかにかかっているからである。一九世紀後半に登場した機械文明と反機械文明の二面性を持ったアール・ヌーヴォーが、アカデミズム批判を訴えた新印象派と並んで、その始まりと見ていいだろう。既存秩序への反抗と純粋志向がモダン・アートの根本である。展示会は、一七世紀、政府がスポンサーとして公認芸術の展示サロンだったが、一八八四年、そういった運営に方針に反旗を翻し、自主的な展覧会のサロン・デ・サンデパンダンが若き芸術家たちによって開催される。さらに、一九〇三年、もっと若い世代の画家たちがサロン・ドートンヌを設立し、一九〇五年には、かのフォーヴィズムを誕生させる。雑誌を通じた芸術家の活躍もこういった自主性の運動の一環である。デ・スティルなどはまさに一九一七年に創刊された『デ・スティル』誌の活動からそう呼ばれている。また、非ヨーロッパ的なエキゾティックでエスニックなものは、フォーヴィズムだけでなく、キュビズムや表現主義を刺激する。それ以前の芸術とこの芸術群が明らかに違う点は、モダン・アートが「複製技術時代の芸術」であり、こういった「運動」という概念を持っていることである。
海野弘は、海野弘=小倉正史の『現代美術』に所収されている「〈モダン・アート〉とはなにか」において、モダン・アートの運動性について次のように述べている。
階級的保護を失い、現代の商品社会、広告社会に投げこまれたモダン・アートは、商品化を避けることができず、その差異性を示すためのことば(宣言、広告)を持たなければならなかった。モダン・アートの特徴である、ことばの重要性をそれは予告している。美術がこれほどたくさんのことばを持ったことはなかった。美術があって、それを語ることばがくるのではなく、むしろ、まずことばが発せられ、そのことばにうながされて、美術作品があらわれるといっていいほどだ。
このような、ことば(観念、記号)の先行性からして、批評がそれまでとは比較にならないほど大きな影響力を持つようになる。批評家はモダン・アートの秘密をにぎる権威として振舞うようになる。モダン・アートは難解であり、一部のエリートによって解読できるという神話がつくりあげられる。
芸術は、階級的保護を失うと、時代の、普遍的な、支配的様式であることをやめて、諸〈運動〉に解体する。モダン・アートは、〈運動〉という様態をとるのである。
ここで語られているモダン・アートの特徴は一九世紀に属している、一九六〇年代くらいまでの多くの芸術は、確かに、一九世紀である。
意識や無意識に関する理解も、言うまでもなく、時代と共に変わり、時代を反映する。百科全書派は権威を批判し、近代が登場する。石橋湛山は、『百年戦争の予想』において、問題系から考えて、一九世紀を一八二〇年代から一九一〇年代まで、二〇世紀を一九二〇年代から百年間と区分しているが、本論の呼び水であるこの認識は二つの世紀の歴史を把握するには、有効である。一九世紀はウィーン体制と一八四八年革命、二〇世紀は「ローリング・トゥエンティーズ」と呼ばれるバブル経済の一九二〇年代と全体主義が勃興した大失業時代の一九三〇年代によって特徴付けられる。近代は「神の死」の到来である。パトロンを失い、芸術家は宣伝に奔走する。権威の死と共に、芸術は根拠を失い、審美主義者は「芸術のための芸術(Art for Art's Sake)」、すなわち美自身によって、美を基礎付ける発想を唱え始める。芸術はニヒリズムの極限を進めるほかない。急進的政治運動が激化し、革命の到来感が蔓延する中、芸術においても前衛が賛美される。彼らは反抗的で、挑戦的、攻撃的な芸術を提起し、政治と芸術の関係について論じている。構成主義といったロシア・アヴァンギャルドは、ロシア革命期、社会主義芸術のプロパガンダとしてその実力を発揮している。けれども、前線にいては、全体を見渡すことができない。作戦を計画するのは後方である。前衛は前線の情報収集として機能を果たすのであって、彼らが何かを積極的に行うべきではない。また、機関銃や毒ガスなどの大量破壊兵器が導入され、無線通信が発達した第一次世界大戦を契機に、指揮系統は前線から後方に下がり、逆に、傷痍兵を保護するため、衛生兵が前線に出て行かなければならなくなっている。指揮系統と情報手段が破壊されてしまえば、戦争は継続できない。対ゲリラ戦のために訓練されたグリーン・ベレーなど特殊部隊が今日の前衛と呼べなくもない。通常の命令系統から独立している彼らは情報収集や破壊工作だけでなく、民間人に対する軍事訓練も行う。さらに、住民を味方につけるため、心理学・文化人類学の知識も身につけ、基本的なインフラ建設にも携わる。博物館は帝国主義の戦利品と略奪品の陳列場所であり、神の死と共に芸術品の保存を始める。芸術品は無意識の顕在化であり、無意識は権威の死により出現する。ところが、二〇世紀はニヒリズムでさえない。前衛と後方の区別は決定不能に陥り、アヴァンギャルドはその革命性を失う。同時多発テロが顕在化させた通り、神は死ぬに死ねない。神の死は決定不能に陥ってしまう。二〇世紀は決定不能の時代である。マクルーハンは、二〇世紀について、「発明を超えて文学であれ、絵画であれ、研究プロセスに移行した時代。このプロセスは生産からは隔絶されている」と言っている。一九世紀では無意識は意識のニヒリズムとして把握されていたが、二〇世紀に至っては、意識と無意識の関係は決定不能性にあり、美はプラグマティックである必要がある。と言うのも、カントは無条件の動機主義を「プラクティッシュ(Praktische)」、条件付き結果主義を「プラグマティッシュ(Pragmatische)」と呼び、前者を評価したが、プラグマティズムの創始者チャールズ・サンダース・パースは後者を選択しているからである。プラグマティズムはエドムント・フッサールの現象学と類似しており、両者ともカント主義の転倒を動機にしている。依然として今も続いている二〇世紀は転倒されたカント主義の時代である。
プラグマティズムは思考を行動との関連において把握する。いかなる思考も基づいて行動した現象としての結果から捉えられる。思考は現実の問題を解決するための道具、すなわち科学の用いる概念図式を過去の経験に参照して、未来の経験を予測するための道具である。「自分が何を考えているかを知り、自分が用いている概念の意味を自由に使いこなせるようになることは、優れた重みのある思想を形成するためのしっかりとした基礎をつくるだろう。この方法は概念の蓄えが貧弱で、狭い範囲に限られているような人々でさえ、極めて容易に習得することができるが、もしそれができれば、概念過剰の泥沼の中で、むやみにもがいているような人に比べて、はるかに幸せとなるだろう」(パース『観念を明晰にする方法』)。思考を行動の前段階に置き、引き起こされる結果を考えるとき、出発点である概念をいかに明確に規定できるかが重要となる。「私たちの概念の対象が、実際的なかかわりがあると思われるどのような結果をおよぼすと私たちが考えるか、ということをかえりみよ。そのとき、こうした結果に関する私たちの概念が、その対象に関する私たちの概念のすべてである」。パースは、概念は行動の前にあり、それにつながる実験という行動と観察可能な結果を考えることにより、その概念を明晰にしようという提案を「プラグマティック・マクシム(Pragmatic-Maxim)」と呼んでいる。思考の働きは「疑念(Doubt)」によって生じ、「信念(Belief)」が得られると、停止する。信念を固めることが思考の機能である。疑念は、そのいかんにかかわらず、「何らかの問いを発すること」であって、信念は「問いの解決」である。「疑念が刺激となって、信念に達しようとする努力」をパースは「探究(Inquiry)」と名づけている。その内容がいかに些細なものであったとしても、疑念があらゆる深遠な思考や学問的な探究の原型である。意思決定の過程において、選択は実証可能な経験によって得られ、信念がいつかは行動へと向かう基本的な立場を取る限り、「合理的目的」のために導かれる。信念を行動へ進ませる「合理的目的」が信念によって表明される「合理的認識」と結びついている。それに対し、パースによれば、カントの理性では選択は無条件的になされる以上、信念と行動との間に合理的、実証可能な目的を見出すことはできない。
「探究の方法」は個人的・閉鎖的な方法からより社会的・開放的な方法へという発展段階を示している。近代以降の探求の方法は「固執の方法(The Method of Tenacity)」や「権威の方法(The Method of Authority)」ではない。「先天的方法(The A-priori Method)」は権威の方法に代わる方法である。いかなる命題が信ずるに足るかを決定する方法であり、観察される事実には依存しない。ただ「理性」にかなうことを基礎に置き、体系的に信念を固定する。「理性」に合うことは現実とは無関係に、それを「信じたい気持ちになる」だけで、普遍性を求められない。カントの批判哲学が体現している通り、信念を固定する根拠は「理性」に求められているが、明晰な思考は見出せず、抽象的な領域を出ることはない。信念を人間的なものではなく、人間の外部にある永延のものによって固定する方法が希求される。パースの言う永遠のものは「実在物(Reals)」もしくは「実在(Reality)」である。これが「科学の方法(The Method of Science)」である。「内的な視点は、亀の甲羅に驚嘆して見入るよりも、亀を食べたいと思う人物の実践的な視点と符合するだろう。そういう人物は新聞に浸るのが好きで、いかなる美学的あるいは知的な認識を得るのも二の次である」(マクルーハン『機械の花嫁(The Mechanical Bride)』)。科学の方法を用いる際に、「実在仮説」が共通の基礎となる。現実の問題を解決するために繰り返し「探求」すると、実在という「外部の力によって一つの同じ結論に導かれる」という信念が生まれる。仮説は探求の前提であり、探求それ自体によって証明することはできない。「科学性とは、本質的に規格性の正反対なのだ」(森毅『学校とテスト』)。当然、自分の考えが誤りをおかす可能性があることを自覚していなければならない。こうした「可謬主義」からつねに自分と異なる思想的立場を認めるという「多元主義」が生まれる。「たとえどのような観念でも、それを信じることがある種の人々に宗教的な慰めを与えるならば、──その限りにおいて──という限定つきではあるが、これを真理として認めなければならない」(ウィリアム・ジェイムズ『宗教的経験の諸相』)。プラグマティズムは実在仮説・可謬主義・多元主義を根底に、「考える」動機を明確にする。”As the young Italian
pragmatist Papini has well said, it lies in the midst of our theories, like a
corridor in a hotel. Innumerable chambers open out of it. In one you may find a
man writing an atheistic volume; in the next someone on his knees Praying for
faith and strength; in a third a chemist investigating a body's properties. In
a fourth a system of idealistic metaphysics is being excogitated; in a fifth
the impossibility of metaphysics is being shown”(William James “Pragmatism”).
カントは近代社会が到来しつつある封建社会における芸術を明確に語っている。「先天的な方法」にとどまっていたカントは、美と崇高において、崇高を理性の領域と考えている。だが、二〇世紀では、巨大芸術が数学的崇高さの対象、大自然が力学的崇高さの対象とは必ずしも断言できない。美と崇高に関して転倒されたカント主義から考えることが不可欠である。
マクルーハンは、「文化はわれわれのビジネスである(Culture is Our Business)」と言っている。 「文化はわれわれのビジネスであるが故に、ビジネスがわれわれの文化だ(Culture is our business therefore
business is our culture)」というわけだ。 “The chief business of the
American people is business”(Calvin Coolidge).芸術は文化であると同時に、広義のコミュニケーションに属する。今日では、プラグマティックで、実用性に基づいたTVのCMは芸術である。広告は、柄谷行人が『政治、あるいは批評としての広告』の中で指摘している通り、「無意識」に訴える。アンディ・ウォーホルがキャンベル・スープの缶を描いたことからもわかるように、広告は現代芸術の特徴を最も体現している。佐伯祐三は。一九二七年に、『広告』という絵画を描いている。これは裏通りのさびれた建物の壁に貼られたポスターを題材にしている。佐伯祐三は表通りという西洋文化から疎外され、人気のない裏通りに追いやられたポスターに自分自身を重ね合わせている。フランスのポスター文化は、一九世紀後半、日本の浮世絵などのジャパネスクに影響されて、形成されている。佐伯祐三は、鋭敏に、広告の持つ「共通感覚」を認識している。カントは「共通感覚」を趣味と呼んでいるが、マクルーハンは、『今をつかめ(Take Today)』の中で、「共通感覚には、あらゆる感覚が互いへと変換されることを意味する。『意味の意味』が関係である」と言っている。商業主義にまみれた二〇世紀の芸術は生産者ではなく、消費者主導になっている。現代芸術は範囲の経済学と規模の経済学に基づき、ミクロの生産性とマクロの生産性をつなぐ福祉・厚生を可能にするという名目で、消費を扇動する。渡部直己は現代日本文学を「電通文学」と呼んでいるが、全般的に、芸術は「広告(Advertising)」となっている。写真と絵画の領域は曖昧になり、展示会や写真集が商業的にも芸術的にも成功しつつ、写真は活字メディアの重要な要素であり、能動写真やファッション写真、広告写真が飛躍的に注目されえている。電通の業務内容は従来の広告事業にとどまらず、巨大イベントの企画・運営から選挙運動まであらゆる機会に広がり、キャンペーン企業である。そもそも近代の産業社会の展示を万国博覧会という巨大イベントが行っている。広告は商品やサービスの販売上重要な社会的・経済的役割を担う一方、その大きな威力は「商品」のプロモーションの範囲を超えて、社会的キャンペーンやメッセージの分野でも活用されている。広告は宣伝と言うよりも、むしろ、提案である。今の広告は商品について以上に、消費者について多くを語っている。エンド・コンシューマーに直接訴えかける直接広告と業界に向けられた流通広告の二つに分類される商品広告のほかに、企業広告がある。企業広告は消費者や自社の従業員、株主、取引先を含めた利害関係者、あるいは就職を志望する学生や転職希望者に対して発信され、さらには社会から好ましい存在として認知され続けてもらうための意図を持った広告である。企業広告が自社の製品やサービスに言及することは稀である。「電通文学」はこういったキャンペーンとしての文学であり、現代の芸術はキャンペーンである。
広告が提案としての役割を担うようになったため、その効果が重要となる。広告主は製品を売ろうとするより、その商品の購買を通じて、「何をえられるのか」を提供することに力点を置いている。「製品」ではなく、それによって何がもたらされるかを消費者は知りたがっている。CMは三つのCM、すなわち「コンシューマー・マインド(Consumer Mind)」・「コーポレート・マインド(Cooperate Mind)」・「コマーシャル・メッセージ(Commercial Message)」によって成り立っているが、その三つのバランスがよいCMに消費者はなびく。「印象として存在することでCMになっている」(森毅『ブラウン管から』)。森毅は、同じ作品で、講義や書物では「二人称」に語りかけているが、「電波だと、なぜか三人称に向けて情報が流れているような気がしている」と言っている。神経を集中させて、広告を享受しない。「ナガラ視聴」(森毅『テレビとラジオ』)である。「人間はたいてい、内容より印象で受けいれるものだ。学会の講演ですら。ましてテレビともなると、人はたいてい、日常のなにかをしながら、ブラウン管を眺めている。語りかけられる内容に神経を集中していることもない。それだけにかえって、対人関係の防衛から無防備になってもいる。それで直接に、その印象が伝わっていく。(略)考えてみれば、これだけ多くの人間のネットワークのなかにあって、たいていは印象によって人のイメージが作られている。電波のネットワークのなかで、たまたまブラウン管に映像が現れているように。それはすぐに消えて別の映像になるかもしれぬが、時間を共有しながら印象を残していく。人間の関係というのは、そうしたものなのだ」(『ブラウン管から』)。電子社会では、自己と他者が決定不能になっている。広告はこうした決定不能の社会に機能している。芸術も、当然、同じ変化にさらされている。マーケティング戦略の一つに「マーケティング・ミックス」がある。E・J・マッカーシーは、『ベーシック・マーケティング』の中で、四つのP、すなわち「Product(製品)戦略」、「Price(価格)戦略」、「Promotion(プロモーション)戦略」、「Place(場所)戦略」を提唱している。各企業の経営資源や競争地位、製品ライフ・サイクルの段階などによって、これら四つの要素をコントロールする戦略を立案する必要がある。プロモーション戦略は広告、パブリシティ、セールス・プロモーション、人的販売の四つで構成されるプロモーション・ミックスで成立する。プロモーション・ミックスには、マスコミ志向のプル戦略と説得コミュニケーションのプッシュ戦略がある。プル戦略は商品やブランドを消費者に認知させる上で、またプッシュ戦略は意思決定を導く際に、高い効果を発揮する。広告は、消費者が商品購買後に陥る「認知的不協和」、すなわち商品そのものや購買方法などに抱く不満や不安を緩和する役割を果たす場合もある。マスメディアを利用した広告は、広告主が期待するような直接的な購買行動の喚起よりも、消費者に意思決定の「選択肢」を提供し、商品やブランドに信用や社会的地位への付与を通じて、購買行動の正当性の補助となる。広告に対するパブリシティは独自に所有する情報をマスコミへの積極的な提供により、マスコミの報道、伝達、教育、娯楽の機能を援助する試みである。この活動がうまく機能したときには、消費者に対する影響力は増し、宣伝効果も絶大である。
こういった広告としての現代芸術にとってインターフェースが重要になる。芸術は情報サービス産業になったのである。インターフェースは物理的・環境的・認知的の三つに分類され、その基準はvisible=invisible、あるいは適切な行為を自然に誘う仕掛けである「アフォーダンス(Affordance)」である。芸術がこうした情報工学的な観点から把握される時代が到来している。ジャック・デリダは、『二つの署名』の中で、「ニーチェは西洋の思想家の中でタイプライターを持った最初の人だった」と言っている。ニーチェは弱視を補うために、使い始め、複数の手を使った初めての思想家である。ルロイ・アンダーソンが作曲した『タイプライター』を思い起こすまでもなく、ニーチェは書くことを情報工学にしている。建築や工業デザインの世界では、CAD(Computer-Aided Design)やCAM(Computer-Aided Manufacture)が主流である。さらに、設計・生産だけでなく、資材の調達や生産計画までを含めて、一貫したコンピューター・データに基づいて、生産活動を行うシステムがCIM(Computer Integrated
Manufacturing)である。設計工学的な芸術活動への視線が欠かせない。こうした環境の下、芸術制作はより工学化が促進され、「芸術工学(Art-engineering)」を考える必要がある。
情報社会において、真実という権威はない。情報は真実と虚偽の決定不能性である。情報社会における信用は情報を決定不能として認知することに基盤を置いている。収集した情報を実用性に基づいて、再構成する必要がある。「個別情報にそれほどの力があると思わない。その情報を組みあわせて判断の構図を作ることが問題である。情報の理論というのは、まだ個別情報の段階であって、配置の構図におよんでいない。エントロピーというのは、エネルギーのような物質的量ではなくて、配置にかかわる概念のはずなのに」(森毅『エントロピーの世紀』)。一九世紀はナショナル=インターナショナルであったが、二〇世紀はポピュラー=トランスナショナルであり、「情報(Information)」は「変形(Transformation)」でなければならない。二〇世紀の芸術は、概して、構成に欠けているが、それは「配置」の芸術だからである。美は配置にある。
Once upon a time you dressed so
fine
You threw the bums a dime in
your prime, didn't you?
People'd call, say,
"Beware doll, you're bound to fall"
You thought they were all
kiddin' you
You used to laugh about
Everybody that was hangin' out
Now you don't talk so loud
Now you don't seem so proud
About having to be scrounging
for your next meal.
How does it feel
How does it feel
To be without a home
Like a complete unknown
Like a rolling stone?
You've gone to the finest
school all right, Miss Lonely
But you know you only used to
get juiced in it
And nobody has ever taught you
how to live on the street
And now you find out you're
gonna have to get used to it
You said you'd never compromise
With the mystery tramp, but now
you realize
He's not selling any alibis
As you stare into the vacuum of
his eyes
And ask him do you want to make
a deal?
How does it feel
How does it feel
To be on your own
With no direction home
Like a complete unknown
Like a rolling stone?
You never turned around to see
the frowns on the jugglers and the clowns
When they all come down and did
tricks for you
You never understood that it
ain't no good
You shouldn't let other people
get your kicks for you
You used to ride on the chrome
horse with your diplomat
Who carried on his shoulder a
Siamese cat
Ain't it hard when you discover
that
He really wasn't where it's at
After he took from you
everything he could steal.
How does it feel
How does it feel
To be on your own
With no direction home
Like a complete unknown
Like a rolling stone?
Princess on the steeple and all
the pretty people
They're drinkin', thinkin' that
they got it made
Exchanging all kinds of
precious gifts and things
But you'd better lift your
diamond ring, you'd better pawn it babe
You used to be so amused
At Napoleon in rags and the
language that he used
Go to him now, he calls you,
you can't refuse
When you got nothing, you got
nothing to lose
You're invisible now, you got
no secrets to conceal.
How does it feel
How does it feel
To be on your own
With no direction home
Like a complete unknown
Like a rolling stone?
(Bob Dylan “Like A Rolling Stone”)
「エントロピー(Entropy)」は、一八六五年に、R・J・E・クラウジウスがギリシア語で変化を意味する言葉から最初に命名している。エントロピーは「熱力学(Thermodynamics)」の第二法則によって、まず、定義される。エントロピーはある系の平衡への近さの尺度、すなわち系の無秩序さの尺度である。第二法則によれば、孤立した系のエントロピーは決して減少しない。孤立した系が最大エントロピーに達成すると、その系はもはや変化をせず、平衡に達する。熱力学的なエントロピーは 温度の高い物質と低い物質が接触したときに、かならず熱は高温の物質から低温の物質へと伝わることを指している。孤立した系のエントロピー、すなわち無秩序さは絶対に減少しない。孤立した系が最大エントロピーを達成すると、その系は平衡に達する。仕事が行われなければ、熱を温度の低い領域から高い領域に移動させることはできない。工学で扱われるすべての重要な熱力学の関係は熱力学の第一とこの第二法則から導き出される。熱力学の第一法則によれば、熱は機械的な仕事に変換したり、蓄えたりできるが、作用であって、物質ではない。一九世紀における意識と無意識の関係は、ジクムント・フロイトが「リビドー」をエネルギーとして描いていた通り、熱力学第一法則である。今日では、リビドーは、むしろ、エントロピーと理解しなければならない。その違いから、一九世紀は生産=蓄積=固定の世紀であり、二〇世紀は流通=消費=流動の世紀であると言える。熱力学の第一法則はエネルギー保存法則である。系に移動した熱と系に対して行った仕事との和は系の内部エネルギーを増加させる。熱も仕事も、系が相互にエネルギーをやり取りしている機構である。エネルギーなしに仕事をする機械はない。エンジンによってイメージできる完全な熱力学的サイクルでは、系の内部エネルギーは変化しない。系に移送された全熱量は系が行った全仕事に等しい。一九世紀のサディ・カルノーは完全なサイクルを持つ熱機関はないと証明している。いかにすぐれた熱機関でも、廃熱として熱を排出しなければならない。熱力学の第二法則は熱機関の効率の上限を定めている。こうした熱力学的認識は統計力学へと拡大され、カントの頃の力学から大きく離れていく。統計力学は分子の全体的な運動を統計的に解いて、系の巨視的な振舞いを探求し、巨視的な熱力学系と微視的な力学系は結びつけている。統計力学では、エントロピーはある系がどのくらい平衡に近いか、系の無秩序さの尺度である。複雑系とも密接な関係にあるルードヴィヒ・ボルツマンの統計力学では、エントロピーは微視的にとれる状態の関数として記述される。統計力学のエントロピーを拡張して、情報の量や不確実さの程度を示す量として一九四八年にクロード・シャノンは情報理論を提唱する。有限個の文字で表現される情報が、電気通信の手段で伝達されるときに、何ビット必要かをエントロピーで示している。さらに、イアン・プリゴジンは、与えられた制約条件下で、熱伝導、拡散、化学反応などが進行している非平衡系では、単位時間当たりに生成するエントロピーの量が最小になるように定常状態が決定される定理を発見している。熱平衡に到達していない系では、系の安定状態に関与する変数が変化すると、別な安定状態になるが、プリゴジンはこうした非平衡系に特有な散逸構造を提唱している。「情報生産にしても、どんどん消費してもらって、消えることでバランスが保たれる。学問や芸術でも、どんどんたまる一方では、地球上が図書館や美術館で埋まってしまう。適当に忘れられ消えていくのが、歴史の流れというものだ。(略)生産を優位に考えていると、エネルギーを投入して生産したものだからと、それをできるだけ大事に維持したくなる。でも、生産されたものは消費されねばならず、そのことで消えていってくれなくては、たまって困る。自然の根本法則は、熱力学の第二法則。二〇世紀はエネルギーの時代と言われたけど、二一世紀はエントロピーの時代になるだろう」(森毅『消費は生産より偉い』)。「我思う故に我在り(I think therefore I am)」は、エントロピーに基づき、「我忘れる故に我消える (I forget therefore I vanish)」に取って代わる。
 こうしたエントロピーは、ネットワークを通じて、達成される。ネットワークはノード、すなわち情報装置とリンク、すなわち回線によって構成されている。それはプロトコルによってつながっている。「プロトコル(Protocol)」は外交上の用語でもあるが、コミュニケーションを行う際の約束事を指す。芸術がコミュニケーションであるとすれば、そこにはプロトコルがある。と言うよりも、自己と他者が決定不能にある電子時代のコミュニケーションの規則は、それ以前のものとは異なり、プロトコルと言い表すほかない。芸術にプロトコルがあるとすれば、芸術作品はアプリケーション・ソフトウェアと見なすことができ、また芸術家はOSとして機能する。好むと好まざると、その恩恵さえ受けていないような地域で活動していても、芸術家はつかみどころのない世界的なネットワークの中に置かれている。「オペレーティング・システム(Operating System)」はコンピューターを動作させるために必要な最小限のソフトウェアであるが、その概念も時代によって変化し、特に、インターネット時代に入ってからは、拡大している。OSの作製は最も困難な知的作業である。かつての芸術家と違い、現代の芸術家にはこうした比喩から類推される役割が求められている。こういった時代背景だからこそ、「商品としての芸術」ではなく、芸術家がメディア・タレントとして露出しているように、「商品としての芸術家」となっている。
I, I will be king
And you, you will be queen
Though nothing will drive them
away
We can beat them, just for one
day
We can be Heroes, just for one
day
And you, you can be mean
And I, I'll drink all the time
'Cause we're lovers, and that
is a fact
Yes we're lovers, and that is
that
Though nothing, will keep us
together
We could steal time, 
just for one day
We can be Heroes, for ever and
ever
What do you say
I, I wish you could swim
Like the dolphins, like
dolphins can swim
Though nothing,
nothing will keep us together
We can beat them, for ever and
ever
Oh we can be Heroes, 
just for one day
I, I will be king
And you, you will be queen
Though nothing will drive them
away
We can be Heroes, just for one
day
We can be us, just for one day
I, I can remember (I remember)
Standing, by the wall (by the
wall)
And the guns shot above our
heads
(over our heads)
And we kissed, 
as though nothing could fall
(nothing could fall)
And the shame was on the other
side
Oh we can beat them, for ever
and ever
Then we could be Heroes, 
just for one day
We can be Heroes
We can be Heroes
We can be Heroes
Just for one day
We can be Heroes
We're nothing, and nothing will
help us
Maybe we're lying, 
then you better not stay
But we could be safer, 
just for one day
Oh-oh-oh-ohh, oh-oh-oh-ohh, 
just for one day
(David Bowie "’Heroes’")
ここまで芸術とテクノロジーを関連させて論じてきたが、マクルーハンによれば、芸術はテクノロジーの生み出す新たな環境から社会を守る。芸術の範囲や規模は明確ではなく、雲のようなものである。いかなるものも芸術になりうるし、誰でも芸術家になりうる。逆に、どんな革新的な芸術であっても、芸術産業に吸収されてしまう危険性は高い。パンク・アートであるニュー・ペインティングも、その衝撃性によって美術界を揺るがしたと同時に、問題性を剥ぎ取られ、既存の美術産業に取り込まれてしまう。アッセンブラージュ=コラージュが発展したインスタレーションも美術自身の根拠を再度曖昧にする試みであるが、同様の状況が待ち構えている。一九世紀末のフランスの象徴派詩人たちは当時の科学、すなわち相対性理論・量子力学・非ユークリッド幾何学と調和=共鳴しており、二〇世紀芸術は、後に言及するフラクタル幾何学や複雑系とシンクロナイズされている。社会変化のソフト・ランディングとしての芸術の性質はメディアに負っている。マクルーハンはメディアにおける「参加(participation)」を重要視する。マクルーハンにとって、メディアが伝達する情報は知識や事実ではない。メディアへの身体的感覚の反応・参加である。オンライン・ゲームや双方向テレビも、参加という観点から、いずれ普及していくだろう。マクルーハンはメディアを二つに分ける。「高精細度のメディア(A High-Definition Medium)」は与える情報が多いため、受け手は何もしなくてよいが、「低精細度のメディア(A Low-Definition Medium)」は情報が少ない代わりに、欠けているものを補おうと受け手を働かせる。前者を「ホット(Hot)」、後者を「クール(Cool)」と呼ぶ。ホットには「ラジオ(Radio)」や「活字(Print)」、「写真(Photographs)」、「映画(Movies)」、「講演(Lectures)」、クールには「電話(Telephone)」や「話し言葉(Speech)」、「漫画(Cartoons)」、「テレビ(Television)」、「セミナー(Seminar)」が属している。漫画を模したロイ・リキテンスタインの作品が示している通り、ポップ・アートはクール・アートであり、ファイン・アートはホット・アートである。クール・メディアを通じて熱狂を配信しようとすれば、それはクール・メディアをオーバーヒートさせるしかない。むしろ、意識的にホットを選択し、レトロ・クールにとどまることの方が望ましい。「精神をどれほど純化しても、バクテリアは防げない。(略)ゆえに、テレビに抗うには、活字などの関連するメディアを解毒剤として摂取しなくてはならない」(マクルーハン『メディアの理解(Understanding Media)』)。
ホット・メディアとクール・メディアの対立はvisible=invisibleに置き換えられる。電子機器によって、わずかな違いが増幅される今日では、後者を把握すべきである。WTCは巨大建築が、アフガニスタンは自然が非線形的なフラクタル幾何学的なことを明らかにしている。近代科学において最大の数学的道具は微積分である。ところが、フラクタルは、複雑系と並んで、微分不可能である。フラクタルは微分不可能な自己相似という性質、すなわち小さい部分を拡大すると、図形全体と同じ形になっているか、それに近い性質を持っている。「雪片(Snowflake)」と呼ばれるコッホ曲数やペアノ曲線がその代表である。一九七〇年代、ブノワ・マンデルブロは、ユークリッド幾何学で使われる次元よりずっと抽象的な次元を定義すると、自己相似的な図形がよく理解できることを見出している。幾何学で扱う次元は自然数に限定する必要はなく、フラクタルは整数でない数の次元にある図形である。「端数(Fraction)」の次元を持つため、マンデルブロは「フラクタル(Fractal)」と命名している。海岸線は、雪片と同じように、細かく計測するにつれて、限りなく、長くなる。マンデルブロによれば、山や雲、銀河、星団などさまざまの自然の形や現象がよく似た性質を保持している。グラウンド・ゼロの行方不明者は瓦礫、アル・カイダのメンバーはアフガンの山岳地帯というどちらもフラクタルな図形の中に潜んでいる。フラクタルは自然のvisible=invisibleを炙り出す。「時代の支配原理はアンチを含むのが常であって、二十世紀後半に、線形の対抗原理としての非線形が脚光を浴びたのは当然としても、そのことがただちに、二十一世紀の支配原理が非線形になることを意味するわけではない。せいぜい、二十世紀の支配原理である線形に対抗しただけであって、それが二十一世紀の数学文化を生みだすかどうかはわからない。でもぼくとしては、非線形差分方程式というのが、ツルリとしないでザラザラして、非決定論でウジャウジャしているところに、自然のあり方のイメージを重ねてしまう。二十世紀があまりに人工的決定論に支配されすぎたゆえに」(森毅『非線形の世紀?』)。
backstroke lover always hidin'
'neath the covers 
till I talked to your daddy, he
say 
he said "you ain't seen
nothin' till you're down on a muffin 
then you're sure to be
a-changin' your ways" 
I met a cheerleader, was a real
young bleeder 
oh, the times I could reminisce
'cause the best things of
lovin' with her sister and her cousin 
only started with a little kiss
like this! 
seesaw swingin' with the boys
in the school 
and your feet flyin' up in the
air 
singin' "hey diddle
diddle" 
with your kitty in the middle
of the swing 
like you didn't care 
so I took a big chance at the
high school dance 
with a missy who was ready to
play 
wasn't me she was foolin' 
'cause she knew what she was
doin' 
and I knowed love was here to
stay 
when she told me to 
walk this way, walk this way 
walk this way, walk this way 
walk this way, walk this way 
walk this way, walk this way 
just gimme a kiss 
like this! 
schoolgirl sweetie with a
classy kinda sassy 
little skirt's climbin' way up
the knee 
there was three young ladies in
the school gym locker 
when I noticed they was lookin'
at me 
I was a high school loser,
never made it with a lady 
till the boys told me somethin'
I missed 
then my next door neighbor with
a daughter had a favor 
so I gave her just a little
kiss 
like this! 
seesaw swingin' with the boys
in the school 
and your feet flyin' up in the
air 
singin' "hey diddle
diddle" 
with your kitty in the middle
of the swing 
like you didn't care 
so I took a big chance at the
high school dance 
with a missy who was ready to
play 
wasn't me she was foolin' 
'cause she knew what she was
doin' 
when she told me how to walk
this way, she told me to 
walk this way, talk this way 
walk this way, walk this way 
walk this way, walk this way 
walk this way, talk this way 
just gimme a kiss 
like this!
(Run-D.M.C featuring Aerosmith “Walk This Way”)
そもそもアメリカの物質文明がもたらしとものはフラクタル性である。どんなに機械文明が発達しようとも、ヨーロッパにはなく、アメリカにおいて初めて登場した概念がある。それは「互換性」である。ヨーロッパの自動車は大量生産された一台ではなく、そのため、故障すると、修理するのが難しかったが、アメリカの自動車の場合、故障したら、その部品だけを交換すればよい。
そういった根本もさることながら、現在では、フラクタル幾何学の応用は急速に広がっている。フラクタルが美しい図形として示されることから、CGでも重要視されているだけでなく、 フラクタルはコンピューターで静止画や動画の情報を圧縮するのに用いられている。一九八七年、マイケル・バーンスリーは、フラクタル変換という方法を発見し、それにより、自然を写し取った画像の中でフラクタルになった部分を見つけて、その画像を生みだす情報、フラクタル・コードを自動的に検出し、画像情報を圧縮する方法が可能になっている。フラクタル画像圧縮方式は、マルチメディアを筆頭に、画像を基本としたコンピューターのさまざまな情報処理ソフトに活用されている。フラクタル幾何学の応用によるコピューターの発展は、visible=invisibleの問題であるカオスの把握をさらに容易にしている。一五世紀オランダの画家ヒエロニムス・ボスの作品で、人々は混沌と激変する環境に対してパニックで反応する。アーサー・クローカーの『パニック・エンサイクロペディア』によれば、電子化された社会において、パニックは熱狂であると同時に、惰性である。すなわち、決定不能性にある。「パニック・アートは私たちを両極の間に置きます。立派なモダニズムという堅固な価値へのノスタルジックな願望と、ポストモダン的過剰生産の無価値へのハイパーな魅惑にはさみこむのです」(『パニック・エンサイクロペディア』)。”One of these days I'm gonna
dance with a King of Sweden”(Pink Floyd “One
of These Days”). 
 フラクタル性を帯びる現代芸術では引用が重視されるが、津村喬は、『解説─毛沢東語録』において、引用について次のように述べている。
 ブレヒトは『メ・ティ』(墨子のこと)や『コイナさん談義』といった引用集、「語録」としての作品を実際に中国古典に影響を受けながら書いたし、自分の演劇を「身振りの引用集」と考えていた。「ヒトラーは間違っている」とか誰でも知っているつもりのことを宣伝するよりも、みんなが無意識にとっている差別や暴力の身振り、ヒトラーを無意識に支援している行動様式を舞台に上げて鏡を突き付けるようにしたほうが効果的だと考えたのだ。引用というのは言葉をもともとの文脈から切り離して、別の文脈に移すこと、自分の文脈で使うことである。それは一九世紀的な「真理システム」の崩壊のあとで、なお言葉を生き生きと使っていくための細い道だった。ヌーヴォ・ロマンを代表するミシェル・ビュトールは『仔猿のような芸術家の肖像』という自伝をなんとエジプトの古文書の引用だけで書いてみせた。エンツェンスベルガ−はスペイン戦争を当時の新聞の切り抜きだけでひとつの小説に構成してみせた。
 民主主義を深めるにはメディア革命が大事だと考えるエンツェンベルガ−が紅衛兵たちの大字報(壁新聞)に注目して、この大字報とかアフリカのゲリラの持っている無線機とかが次の時代のメディアを準備するかも知れないと書いたことがある。
 シンディ・シャーマンは、古い映画のあるシーンを自ら演じて、セルフタイマーで写真撮影している。イメージを引用し、そこにさまざまなスタイルのモザイクを紛れこます。森毅は、『数学の歴史』において、一九世紀を「体系」の時代、パースが「方法(method)」に焦点をあてていたように、二〇世紀を「方法」の時代と呼んでいるが、二〇世紀芸術は「方法」の芸術である。引用は反復である。しかし、この反復において、オリジナルとコピーの二項対立は、その決定不能性によって、無効になっている。そうである以上、厳密には、自己相似化であって、引用ではない。パースは記号過程を「図像(Icon)」・「指標(Index)」・「象徴(Symbol)」に分類している。アンディ・ウォーホルはイコン、すなわちイメージをフラクタル化している。ただし彼のイコンは聖人ではない。マリリン・モンローやエルヴィス・プレスリーといった商業主義にまみれたポップ・スターである。また、ジャスパー・ジョーンズは『三枚の旗(Three Flags)』において、国民国家のシンボルである国旗をフラクタル化している。本来、シンボルは一義的であり、曖昧さや多様さは排除しなければならないが、ジャスパー・ジョーンズは一義性をフラクタル化することによって多義性を表象する。「ホンモノというのは公認の価値を志向しているだけで、新しい文化価値を生みだすのは、A級よりもかえってB級のような気がするのだ」(森毅『B級文化のすすめ』)。そのB級が自己増殖している。芸術はファイル化し、コンピューター・ウィルスのように、自分自身のコピーを作り出す。「私たちはこの世界を修道院に変えたのです。セルフ・イメージを崇拝できる修道院へと」(『パニック・エンサイクロペディア』)。ポップ・アートに見られる繰り返しは自己相似性と微分不可能性というフラクタルを体現している。
I wanna be loved by you, just
you,
And nobody else but you,
I wanna be loved by you, alone!
Boop-boop-de-boop!
I wanna be kissed by you, just
you,
Nobody else but you,
I wanna be kissed by you,
alone!
I couldn't aspire,
To anything higher,
Than, to feel the desire,
To make you my own!
Ba-dum-ba-dum-ba-doodly-dum-boo
I wanna be loved by you, just
you,
And nobody else but you,
I wanna be loved by you, alone!
I couldn't aspire,
To anything higher,
Than to feel the desire,
To make you my own,
Ba-dum-ba-dum-ba-doodly-dum-boo!
I wanna be loved by you, just
you,
Nobody else but you,
I wanna be loved by you, 
ba-deedly-deedly-deedly-dum-ba-boop-bee-doop
Boop-boop-a-doop!
(Marilyn Monroe “I Wanna Be Loved By You”)
“What do you wear in bed?”と質問されたマリリン・モンローが”What do I wear in bed? Why,
Chanel No5, of course”と答えているが、シャネルの五番という名称は極めて二〇世紀的である。従来、香水には、イメージさせる名前が好まれていたのに対して、五番という記号性の強い名称にしている。「複製技術時代の香水」である。
「複製技術時代の芸術」にはコピー技術の発達に基づく芸術と芸術自身のコピー性の二つの意味がある。これを本格的に追求したのがポストモダンであるが、ポストモダンの始まりはアール・デコである。ポストモダンはモダン・アートのパロディ、あるいはパスティッシュであり、ポストモダン以降の芸術は、より分裂・統合を繰り返し、さまざまな小さな芸術集団ないし芸術家個人の単位になり、ポストモダンのパロディ化まで行っている。芸術のカオス的状況は芸術のカオス学的認識を待っている。芸術作品でも、芸術家でもなく、芸術史を含めた芸術をめぐる現象が社会や時代を反映している。これは当然だろう。最も支配的だった芸術の歴史は、近代に入って以来、白人男性によって占められているのだから。近代以降に記述された支配的な芸術史は運動の歴史にすぎない以上、そうならざるを得ない。アール・デコは運動も明確な主張も、はっきりした範囲もなく、ただたんに雑多である。ニューヨークやパリだけでなく、ロンドン、ベルリン、ロス、上海、東京といった世界中の都市がシンクロナイズしている。二つの世界大戦の間の現象としか言いようがないけれど、当時の人々はそんな名前は聞いたこともなっただろう。一九六六年、パリで「二五年展」が開催される。それは一九二五年にパリで催された「近代装飾・美術万国博覧会」を解雇する目的だったが、この名称の一部である「装飾(アール・)芸術(ディコラティフ)」が、「アール・デコ」に縮められて、その時代の芸術現象の総称として使われ始める。一九六九年に、ぺヴィス・ヒリヤが『アール・デコ』を出版し、一九七一年、ミネアポリス美術研究所が「アール・デコの世界」展を開催し、七〇年代から、現代芸術のキーワードとして普及する。ファッショナブルな外装の自動車、インテリアやハンドバッグといった女性の好む小物がそれに含まれていたように、アール・デコはモダン・アートの大衆化であり──国民が成人男性を指していたのに対し、大衆は女性を意味する──、パロディである。
プログラミングによってフラクタルの図形をCGで表わすことは決して難しくはない。それはシュルレアリズムの自動書記の具現である。芸術は機械が作る時代になっている。人間はプログラミングをして、その結果がモニターに映し出されるのを待つだけである。それは嘆くべき事態ではなく、芸術制作がより開かれてきた証である。コンピューターやインターネットは、質的にも、量的にも、芸術を拡大している。エリック・レイモンドは、『伽藍とバザール(The Cathedral and The Bazaar))』において、「伽藍」と「バザール」を提起する。前者は非公開性、後者は公開性を意味するが、創造的活動では、バザールのような公開性と交通性がその力となる。「道というものは、周辺の土着に支えられてではあるが、文化を通じ、文化をもりたて、そこから活力を吸収するものだろう。国際化時代というのは、道の文化の時代ということでもある。歴史は、そのダイナミズムを現代に再活性化するためにあると思う」(森毅『文化は道から』)。バザール文化が生み出す芸術作品はさらに手を加えられる余地を残し、スイス・チーズのように、虫食いだらけである。
カントにとって、芸術はバザールが生み出すわけではなく、「天才」によってもたらされる。カントの美の判断はある感覚の快=不快を意味しない。と言うのも、心地よさはつねに主観的な趣味の問題にすぎないからである。美の判断はいかなる感覚によっても惑わされず、また途切れることのない形式に基づいている。この形式化には構想力と理解力が関係している。構想力は理解力に自然の形式を提示し、概念を形成する力に従っている。その力は意識していないにもかかわらず、意識を形成するため、利害や損得などへの無関心な美に関する趣味的判断を形成することができる。そこでカントはデッサンを重視する。デッサンは美の判断を引き出す。自然との関係においてのみ美は判断される。自然は自然美を隠す傾向にあるので、芸術は自然からデッサンと目的の意味を拝借する。けれども、デッサンは形態の戯れあるいは感覚の戯れであり、補足的なものなのか、装飾的なものなのかという矛盾を含んでいる。この矛盾は天才によって解決される。天才は不可視のものを表象する。天才はコードをソース・コードへとコンパイラーするというわけだ。「天才とは、生得の心的素質であり、この素質を通じて自然は芸術に規則を与えるのである」。天才の芸術には、幻想がリアルであることを顕在化してしまうために、固有の「醜さ」がある。従って、天才は、時として、一般の人々から理解されないことが起こりうるのである。
しかし、電子時代では、美はプラグマティックな実用性の提案によって判断されなければならない。パブロ・ピカソは線自体と色自体に着目しているが、ポップ・アート同様、非常に記号性の強い絵画である。一方で、写真以上に写真たらんとするハイパーリアリズムが起きている。それらは、どちらも、美=醜によって明確に規定できるわけではない。伝統的な美=醜も決定不能性にある。美しくあるいは醜くある必要もない。現代において、天才は必ずしも必要ではない。むしろ、道化こそ望ましい。
 森毅は、『森流の忍者武芸帖』において、道化について次のように述べている。
 いろいろなヒエラルキー、序列というものがある。ぼくは王様になるのも、奴隷になるのも性に会わない。ところがここに〈道化〉という階層がある。〈道化〉は、背景に力がなく不安定な立場であるけれども、ある面では王様と同格の部分もあるし、またある面では一種の奴隷だ。
 王様にしゃあしゃあと悪口を言えるのは、大臣ではなく、実は〈道化〉だ。だから、王の権威を補完しているともいえる。それでいて、下層の下男下女からも馬鹿にされている。〈道化〉というのは上下関係で言えば、一番上であり一番下でもある。ぼくにとってはそういう立場が理想なのだ。
 馬鹿にされることを嫌っていては、絶対に〈道化〉にはなれない。阿呆とか言われ笑われるけれど、馬鹿にされていることはものすごく賢いという一面がある。シェイクスピアの作品を見ていればわかるが、一番賢いのは実は〈道化〉なのだ。
 だから〈道化〉になることで、序列的な権威の枠組みから外に出て、自由になれるのである。同時に自分の中に阿呆な自分を見る目みたいな複眼的な視点を持つことができる。
 寄席で言えば、何となくおかしいとくすくす笑われるような芸が、落語家の芸としては質が高いのだ。笑わせるというのは、自分の意志で相手を笑わせるので、意識的で支配的な行動だ。こういう能動性が価値が高いという思い込みが、根強く若い人たちの間に存在する。
 ところが笑われるというのは受動性だ。あいつはおかしいな、と存在そのものを笑われる方が芸としてはより高級なのだ。高級なだけに、うまいこと行くかどうかはわからない。むしろ、まずいのが当たり前で、やっているうちに何となく、あの人はええ味を出している、というふうになってくるのだ。
 マクルーハンは、『グーテンベルクの銀河系(The Gutenberg Galaxy)』において、「文字を持たない部族的時代(The Preliterate or Tribal Era)」では話し言葉が王、耳が女王、「グーテンベルクの時代(The Gutenberg Age)」になると、活字の言葉が王、目が女王、そして「再部族化された人間の電子時代(The Electric Age of
Retribalized Men)」に突入すると、あらゆる感覚──特に、触覚──が力を持ち、対等に振舞う全感覚が王宮の道化となり、もはや王も女王も存在しないと指摘している。「グーテンベルクの活字の発明は、線的で画一的、連続的、継続的な理解の仕方を人間に強制したのである」が、電子メディアは非戦的で多様的、非連続的、断続的な理解の仕方を人間に提案している。権威の決定不能な世界において、道化が志向される。宮廷では、権威のために、道化を必要とする。道化はヒエラルキーの上下をつなぐ。しかし、電子時代においては、道化は秩序に対するエントロピーを増大させ、世界をフラクタル化させる。
 エントロピーが増大し、さらなるフラクタル化が進む歴史的流れにあって、今後の芸術において運動はもはやない。ポップ・アートは、モダニズムと違い、運動と言うよりも、集団的匿名によって形成される現象である。匿名は有名と無名の二項対立を克服する。芸術から運動は消え、ただ、流れだけがある。一九世紀では、「意識の流れ(Stream of Consciousness)」(ウィリアム・ジェイムズ)はエネルギーだったけれども、二〇世紀において、エントロピーである。芸術は配置の問題である。坂本龍一は、一九九九年、”Energy Flow”を発表しているが、われわれは、むしろ、“Entropy Flow”を唱える必要がある。意識の流れだけではない。無意識にも決まった方向性がなく、美においてもそれは言える。グローバリゼーションはアメリカニズムのエントロピー増大である。運動は近代に特有の概念であって、芸術は必ずしも運動として起こるわけではない。運動は力の方向性であり、それはアイザック・ニュートンが自然科学に導入した見方である。力の方向性としての運動の理論的極地がヘーゲルの弁証法体系である。芸術において最も重要なのは新しさである。新しさは、芸術が運動として考えられている時代には、運動の方向性として認められる。真の新しさがなかったとしても、新しく見えればよい。だが、いまや新しさは現象性である。「理論というものの有効性には、現実からの要求とか、理論自体の正しさとか、理論から生み出される効果とか、そういったもの以外の、べつのファクターがありそうに思う」(森毅『理論の寿命』)。理論の衝撃は新しさにある。たとえ古い理論の再生であったとしても、同じである。ただ、カルノーが証明した通り、完全なサイクルは存在しない。文化は世代交代に依拠し、それは循環するが、現代の文化循環は方向性を持っていない。エントロピーが増大していくフラクタル現象である。
Fame, makes a man take things
over
Fame, lets him loose, hard to
swallow
Fame, puts you there where
things are hollow
Fame
Fame, it's not your brain, it's
just the flame
That burns your change to keep
you insane
Fame
Fame, what you like is in the limo
Fame, what you get is no
tomorrow
Fame, what you need you have to
borrow
Fame
Fame, 'Nien! It's mine!' is
just his line
To bind your time, it drives
you to, crime
Fame
Could it be the best, could it
be?
Really be, really, babe?
Could it be, my babe, could it,
babe?
Really, really?
Is it any wonder I reject you
first?
Fame, fame, fame, fame
Is it any wonder you are too
cool to fool
Fame
Fame, bully for you, chilly for
me
Got to get a rain check on pain
Fame
Fame, fame, fame, fame, fame,
fame, fame, fame, fame, fame
Fame, fame, fame, fame, fame,
fame, fame, fame, fame, fame
Fame, fame, fame
Fame
What's your name?
(whispered)
Feeling so gay, feeling
gay  
(David Bowie & John Lennon “Fame”)
こうしたエントロピーとフラクタルの時代における道化は、宮廷と同じように振舞うわけには行かない。王も女王もいない。スタイルを変換させなければならない。
I'm sorry, but I don't want to
be a, an emperor. 
That's not my business. I don't
want to rule or conquer anyone. 
I should like to help everyone
if possible; Jew, Gentile, black man, white. 
We all want to help one
another, human beings are like that. 
We want to live by each other's
happiness, not by each other's misery. 
We don't want to hate and
despise one another.
In this world, there's room for
everyone and the good earth is rich and can provide for everyone. 
The way of life can be free and
beautiful, 
but we have lost the way. 
Greed has poisoned men's souls,
has barricaded the world with
hate, 
has goose-stepped us into
misery and bloodshed.
We have developed speed, but we
have shut ourselves in.
Machinery that gives abundance
has left us in want. 
Our knowledge has made us
cynical; our cleverness, hard and unkind. 
We think too much and feel too
little. 
More than machinery, we need
humanity. 
More than cleverness, we need
kindness and gentleness. 
Without these qualities, life
would be violent and all will be lost. 
The aeroplane and the radio
have brought us closer together. 
The very nature of these
inventions cries out for the goodness in men, 
cries out for universal
brotherhood, for the unity of us all.
Even now my voice is reaching
millions throughout the world, 
millions of despairing men,
women, and little children; 
victims of system that makes
men torture and imprison innocent people. 
To those who can hear me I say
do not despair. 
The misery that is now upon us
is but the passing of greed, 
the bitterness of men who fear
the way of human progress.
The hate of men will pass and
dictators die and the power they took from the people will return to the
people. 
And so long as men die, liberty
will never perish. 
Soldiers, don't give yourselves
to brutes, 
men who despise you and slave
you, who regiment your lives, 
tell you what to do, what to
think and what to feel! 
Who drill you, diet you, treat
you like cattle, use you as cannon fodder! 
Don't give yourselves to these
unnatural men! 
Machine men with machine minds
and machine hearts! 
You are not machines!
You are not cattle! 
You are men! 
You have the love of humanity
in your hearts! 
You don't hate! 
Only the unloved hate, the
unloved and the unnatural! 
Soldiers, don't fight for
slavery! 
Fight for liberty! 
In the 17th chapter of Saint
Luke it is written, "The 
Not one man nor a group of men,
but in all men!
In you!
You, the people, have the
power! 
The power to create machines! 
The power to create happiness! 
You, the people, have the power
to make this life free and beautiful! 
To make this life a wonderful
adventure!
Then, in the name of democracy,
let us use that power! 
Let us all unite!
Let us fight for a new world!
A decent world that will give
men a chance to work, 
that will give youth a future
and old age a security.
By the promise of these things brutes
have risen to power! 
But they lie! 
They do not fulfill their
promise! 
They never will! 
Dictators free themselves, but
they enslave the people!
Now let us fight to fulfill
that promise! 
Let us fight to free the world!
To do away with national barriers!
To do away with greed! 
With hate and intolerance! 
Let us fight for a world of
reason! 
A world where science and
progress will lead to all men's happiness. 
Soldiers, in the name of
democracy, let us all unite! 
Hannah, can you hear me? 
Wherever you are, look up,
Hannah. 
The clouds are lifting. 
The sun is breaking through. 
We are coming out of the
darkness into the light. 
We are coming into a new world.
A kindly world where men will
rise above their hate, their greed and brutality. 
Look up. Hannah. 
The soul of man has been given
wings and at last he is beginning to fly. 
He is flying into the rainbow,
into the light of hope, into the future, 
the glorious future that
belongs to you, to me and to all of us. 
Look up, Hannah. Look up. 
(Charles Chaplin “The Great Dictator”)
 えのきどいちろうは、『とんちのきいた男』において、現代の道化について次のように述べている。
これは従来、僕が持っていた言葉で言うとファインプレーのことです。ファインプレーはいつもアテにしているところがある。僕は、うっかり出た力も自分の力、ということで平均点を算出しているんですね。日々どうやってうっかりすることに賭けていると言っていい。「この文章の、ここのところにファインプレーが欲しい」、とか、「この話をするんだったらいきなり冒頭からファインプレーで始めたい」とか。
 ファインプレーという言葉は身体性のイメージがあるから好きなんですが、とんちにはそういう瞬発力が秘められていますね。思考のジャンプ。発想の人間風車。やけに腑に落ちる感触があったんですよ。自分はこの先、とんちを鍛え上げていけばいいんじゃないか。
 僕が今までつまらないと思ってたものは全部とんちがきいていなかった。形勢逆転への意欲が感じられない。自分だけのバネがない。「何かあった時」というのは、謎や問題や困難でしょう。謎や問題や困難に直面してどう対処するかというのは、まぁ、生きてゆくことです。そのとき踏み出してゆくアクションにとんちがきいてないのだったら、結局、何にもならないじゃないかと思う。
ここで連想するのは「立派」と「正しい」のことです。皆、「立派」と「正しい」には本当に弱くてせっかくの「何かあった時」にそっちを選んでしまう。「立派」と「正しい」の誘惑は相当なものですよ。とんちがきいてない大半はそこで負けている。「立派」と「正しい」はろくなもんじゃないです。そんなもんは自分の外側探したって絶対にない。
僕だって自分の信じる「立派」や「正しい」がないわけじゃないけど、それはとんちをきかせ倒して生き抜いた先に、何とも言えない表情で橋にペンキを塗っている人が出迎えてくれたようなもんです。ペンキ屋です。橋の真ん中ペンキ塗りたてです。
ナチスは、「正しさ」と「立派さ」に基づいて、前衛芸術を退廃芸術として排斥している。一九三七年、ミュンヘンで、ナチスは最初の頽廃芸術展を開き、ノイエ・ザハリヒカイトがそこでその典型として否定される。アドルフ・ヒトラーの絵画は、興味深いことに、すべて風景画であり、人物画を描けないという理由で美術学校への入学を断られている。また、テロを起こした側も、報復に出た側も、「正しさ」と「立派さ」を主調している。それならば、「とんち」という価値基準によって芸術を判断する方がいい。二〇世紀において芸術家は「とんちのきいた男(A Man of Ready Wit)」である。えのきどいちろうは自分自身について語っているため、「男」を使っているだけであって、それにこだわるべきではない。ヘーゲルがドニ・ディドロの『ラモーの甥』に「機知」を見出したことは正当である。権威の消失は笑いを呼びこむ。一九世紀において、それはアイロニーであるが、二〇世紀では、芸術にはユーモアが求められている。反動性の笑いであるアイロニーは運動から世界認識を行っていた前世紀にはふさわしかったが、方向性を持たない笑いのユーモアは今世紀に似合っている。エントロピーの時代にあって、「形勢逆転」は配置転換を意味している。新しさは「形勢逆転への意欲」に基づいた「絞首台のユーモア(Galgenhumor)」である。今日の芸術から把握される無意識の美にはこうしたガルゲンフモールが感じられる必要がある。NHK教育テレビで放映されている『ハッチポッチ・ステーション』の中で、『日曜美術館』のパロディ『日用品美術館』において、ゴーギャンの『アルルの女』に影響されたギャンギャンの『レレレのおじさん』が紹介されている。これこそが、そのパロディ性の点で、二〇世紀芸術の最高の具現化である。実際、マルセル・デュシャンも、モナリザの複製写真に髭を書きこんだ『L・H・O・O・Q』を発表している。複製技術時代の芸術は自らをコピーし、芸術は死ぬに死ねなくなっている。「ペンキ屋」として芸術家は、だから、「橋の真ん中ペンキ塗りたて」にするために、ガルゲンフモールを口にする。"In the future, everybody
will have 15 minutes of fame” (Andy Warhol).
We're caught in a trap
I can't walk out
Because I love you too much
baby
Why can't you see
What you're doing to me
When you don't believe a word I
say?
We can't go on together
With suspicious minds
And we can't build our dreams
On suspicious minds 
So, if an old friend I know
Drops by to say hello
Would I still see suspicion in
your eyes?
Here we go again
Asking where I've been
You can't see these tears are
real
I'm crying 
We can't go on together
With suspicious minds
And we can't build our dreams
On suspicious minds 
Oh let our love survive
Or dry the tears from your eyes
Let's don't let a good thing
die
When honey, you know
I've never lied to you
Mmm yeah, yeah
(Elvis Presley “Suspicious Minds”)
〈了〉